読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

tekoireフィクション行状記

小説、映画、アニメ漫画などの消費記録を投稿しています。

ニトロプラス『装甲悪鬼村正』感想

PC内のメモを整理していたら、古い文章を発見しました。相変わらずてにをはのレベルで何いってんだかわからないわけですが、ちょっとしばらく忙しく、フィクション消費している時間が無いのでお茶を濁すためにも載せます。個人メモをそのまま載っけてるので人に見せるような体裁が整ってないのは堪忍。 あとネタバレがあるのでそこら辺はご留意を。

良かった

初志貫徹したテーマ

まさにこの作品を表す全てと言ってもいいくらいだが、『善悪』にまつわるテーマを起点としてキャラクターの行動指針が決まり物語が展開していくのは、この長さを考えれば素晴らしいとしか言いようが無い。まるで短編で顕さられるような拮抗かつ生き死に関わるフィクションでは避けては通ることが出来ないテーマを大河ものとして大きく展開し、かつそれを畳みきった傑作。

バトル展開

長らくラノベ的なバトルにはついていけないと考えていたが、本作は武士の『居合』をミステリのような論理で、読者にも分かりやすく、かつ『驚き』というフィクションの要を外さないで開陳してゆくので、自分のようなものにも楽しむことが出来た。いわゆるジョジョ以降に備わったとされるゲーム性のバトル展開ですな。物語の大詰めである魔王編の終盤、銀星号との宇宙決戦においてもまずは図解を見せてくるくらいなのでその凝りようは尋常なものではなさそうである。wikiには作者が剣豪バトル?を書きたいという願望を実現したのが本作だと書いているが、それもよく頷けた。

大河フィクションとして

大河ドラマ」とよくいうが果たして大河とはどのような意味なのか寡聞にして知らなかったので、ググってみるとどうやら『長い年月をかけて、個人を超えた集団を描写する』という定義が近いのではないかと理解。長い年月をかけてかどうかは分からないけれど、湊景明という主人公を語り部として起点にはしているが、その他のキャラもヒロインを始めとして果ては悪役である六波羅の四公方やGHQ、主人公と対を成す理念をもつ雪車町に至るまで、外面に留まらない描写が全編を通してある。また我欲を求め、圧政を用いて大和という国を治める六波羅、平和を求めて朝廷、国連から派遣されているGHQ(そして魔王編ではその頂点に存在し露の南下方策を防ぎたい英、大和を手中に収めることにより国連に反旗を翻し、占領下にある母国を取り戻そうとする米が存在する)を三つ巴にした国盗り物語である。それを『善悪』というテーマを糊として組み合わせるのは、この尺であっても読者に飽きさせないような作りになっており、大河と呼べるものだったと思う。長さに関しては色々意見はあると思うし、重複している概念は多いとは思うが、そのおかげでテーマをこれでもかというくらいに重厚なものしている。

テーマと(キャラクタ)設定と展開

常々、フィクションにおいてはテーマと設定や展開という軸がどのように交差するのかが重要であると考えてきた。それを考えると本作の(一条)「殺人を用いて悪に報いた正義もまた悪なのではないか」(大鳥)「悪への報復は正義として成立するのか」という『善悪』を起点とした、ルートごとに設定されたサブテーマとでも言えるものが、各ルートの各キャラクタ、そして展開に綿密に結びついたものだと思う。この点はキャラクタを基盤とするエロゲーという媒体は強い。キャラクタを選ぶという行為が=でテーマを語るということに転化出来るからだ。

歴史考証

これは僕が疎すぎるだけなのだろうけれど、史実とその史実から創作された設定が面白い。ツルギもそうだし、六波羅政権や国際情勢や人物設定などなど。

良くなかった

システム

超速スキップよくわからない。とても遅いし、未読に差し掛かりスキップが開けても、スキップ中のスクリプトの履歴を追うことが出来ない。後に別ルートをプレイするために、分岐点をセーブしているわけだが、やり直したときには既に文脈を忘れていることが多く不便した。 意味のないシミュレーション?というか分岐。大鳥ルートの飛行船や魔王編で村正の銀星号の卵を退けるために、過去で自分の心を拾う?ようなことをしてるやつ。とくに後者はほとんど総当りに近いし、新情報があるわけでもないし必要だったのだろうか。 魔王編での対銀星号の立体数独パズル。あの場面で数字使ったパズルがしたいやついんの? ノベルゲーには付き物なのか本作に限られた話なのかは定かではないけれど、ルート分岐やスキップという読み物としての機能が随分と煩雑であったり不便なように感じた。

江ノ島

好感度パラメータによって一条、大鳥の二人の個別とそれぞれがいる3パターンが存在するのだが、微妙にパターンが違うだけでだいたいすることは同じでありそれがとても冗長

冗長さ

とにもかくにも長い。大河なので長くても良いかもしれないが、魔王編の銀星号では4次元に飛ばされ時間軸を彷徨い、宇宙へ出向きしかしそこでも居合いを行うと言った具合に妙な嗜好が冗長に続いている印象を受けた。宇宙に行く必要、あったのかな。エロゲの長所であり、やはり悪所なのが他の媒体と異なり尺の制限がおそらくは甘いことだと思う。一つの戦闘とってもとにかく長いのだ。それもゲーム性のある論理バトルならともかく終わったか!?と思わせといて必殺技が残っているという展開があまりに多すぎるように思えた。

ストーリー

テーマは「善悪相殺」が象徴するように善いとされる行いと悪いとされる行いは同じことに過ぎないということが基盤にある。 主人公の湊景明は妹の湊光を止めるためという大義のために二世村正を装甲して、悪を退治する。村正は「善悪相殺」の法により悪を一人切れば、同じ数の愛する人間、善なる人間を着ることを要求するのだ。 そしてその合間で景明は苦しむことになる。この作品が鬱作品として認識される所以であるが、悪人を殺すことにより愛する人、ヒロインや決して罪を抱えているわけではない人を殺さざるをえないことになる。 なぜ村正はそのような法を主に強いるのか。なぜ景明はそのようなまさに悪鬼の所業を行わねばならないのか。

まずは『正義』という言葉の相対性がある。正義を執行するために悪を切るとき、その悪が絶対的な悪とは決して言えないのだ。悪人の『悪』はその人間の一面性かもしれない(一条を憎んだ古河公方の側近の男の子)。 あるいは完全な生まれながらの悪人だとして、それを殺人を持って行うことは本当に正しいことなのだろうかという疑念、というより正しくないという哲学が作品全体を通して存在する。 つまりこのゲームの目的は一つのジレンマを表現することにあるといえる。それはつまり正義を成すには悪にならざるをえないという『武力』に対する徹底した洞察だ。

景明は常に苦しんでいる。それは決して村正が問題ではない。村正という機能は特別なものでは決してなくて、この世の不条理を体現したものとして存在するのだ。善人を切らざるをえないことは、正義を執行することが悪の所業でしかないことを見ぬいた村正家が、世界に、強いて言えばプレイヤーに提示するこの世のジレンマだ。村正が問題ではなく、世界に、人間であるプレイヤーにまつわるジレンマなのだ。 そしてまたそのジレンマは争いの種になる。殺された人間の縁者は、どのような理由、正義があろうと殺した人間を憎み仇討を行おうとする。それは終わることがない争いにしか発展する余地が無い。

一条ルートは正義の話である。綾祢一条は正義を信じている。正義が純然に正義として存在して、悪を打倒し、平和をもたらすものとして信じている。そして正義を執行すると同時に善人を滅ぼす景明を憎むことが宿命となる。 景明は善人を殺さざるをえない自分を呪い続ける。しかしそれは雪車町が指摘するように実は欺瞞でしかないのだ。なぜならその呪いが、善人を殺したくはないという感情はいわゆるエクスキューズでしかないのだ。それは『死』という概念が、ハイエンドの負債として常に人間の背後をひた歩いているという前提がある。殺されるものは、殺すものが抱える理念や正義を信じて自らを殺されることを良しとするだろうか。 また悪であったとして、その人間がいつも悪であるわけではない。これはプレイヤーにプレイヤーの、湊景明というキャラクタの立場から大きく離れて、他者の立場と入れ替えて思考することを要求する。蝦夷の子供らや、雄飛や操は決して景明を許すことはしないだろう。しかしプレイヤーの視点から言えば景明の殺人は村正の呪いによってもたらされた仕方のないこととして映る。 そしてもちろんこれは欺瞞だ。死という負債を帳消しするためのエクスキューズなど存在するはずがない。大義や正義があるからといって自分が殺されても文句を言わない人間はいない。 これは綾祢一条のビルドゥングスでもあった。一条は始め、正義というものが絶対的に純然に正義としてのみ成立することを疑わずに信じきっている。だから景明が善人を殺していることを理解することは出来ない。それは悪の所業である。 しかし古河公方を倒す、いや殺したことで一つの事実が目の前に立ちはだかり苦しむことになる。古河公方という存在は多面的なものであり、決していつも悪というわけではないのだ。岡部に対して悪として振る舞ったが、従者の男の子に対して命を助け善人としての側面を持っている人間であった。古河公方を殺したことで、そして従者から憎まれたことで、一条は初めて正義という概念が悪を成してでしか成立し得ないというジレンマを自覚する。一条ルートが英雄編である所以がここにある。これは綾祢一条にとっての英雄が否定されるルートなのだ。善を行うことが悪を持ってでしか成立しえないというジレンマを徹底的にプレイヤーに突きつけるルートだ。 克服はない。キャラクターはどこまでいっても救われることはないし、肯定することも出来ない。だから景明は悪鬼という道を選ぶのだ。争いを無くすためには悪鬼として振る舞い、武力を持ってして平定するしかない。 ラストで景明を殺した一条が今度は村正を纏い悪鬼として振る舞うのはつまり絶対的な英雄が死んだことを意味する。

善を行うことが、悪をもってでしか成立しえないというジレンマをすべての人間が抱えている。 湊景明はそれに苦しみ、そして争いを無くすためには悪を切り、同じ分だけの善人を切ることを肯定的に決める。

ごちゃごちゃと書いたが、善悪という古今東西、避けては通ることの出来ないテーマをこれでもかというほどに煮詰めた大作だったと思う。設定よし、展開よし、テーマよしの傑作だった。

07th expantion『彼岸花の咲く夜に』感想

ということで2011年のノベルゲームです。もともとは竜騎士07氏の原作漫画である作品をノベルゲームに移植したとのことです。 個人として当サークルの作品は『ひぐらしのなく頃に』『うみねこのなく頃に』の二作のみをプレイ済みです。ですが決して過去作品の考察なんかに精を出したわけでもなく、自分はどちらかというとうみねこで批判されていた怠惰な読者に属するのではないかと思います。 なのでこのようなコアなファンが多いサークル作品の感想をおいそれとwebに書くのも恐れ多いのですが、まぁ今作は特に”読者への挑戦”なんかがあるわけでもないですし。ぶっちゃけ今作をプレイしている人をリアルで会ったことないんですけど(ひぐらしうみねこはプレイしてる人、いっぱいいるんだけどなぁ)。

ということで適当にプレイ中メモを編集して載せてみます。

各話感想

壱話 『めそめそさん』

テーマがまんま『ひぐらしのなく頃に』でした。竜騎士07の決して飛躍することをよしとしない保守的な思想が滲みでてますね。 行為だけみれば金森が悪とした一辺倒な勧善懲悪の復讐譚として考えることはできるのですが、やはり見るべきポイントとしては個々人の内面であって

という点なのではないかと思います。特に鞠絵に対する批判的な視点は竜騎士07の面目躍如たるところとでも言えるでしょう。
コロコロと視点を回しながら鞠絵の心理を見せて、返すは金森の鞠絵への心理を見せてとそこら辺の視点転換も相変わらずうまいです。弱者だった金森が社会にヒエラルキを見出して、より弱者である鞠絵を陵辱することに意味を見出すという話全体の骨子が、鞠絵側の心理を序盤に見せることによってうまく表現されていたと思います。 金森が鞠絵に「相談することだったんだよ!!」っていったときは『ま、前原圭一?』と思わないでもありませんでしたが。
あと金森の表情がグッドです。過去のコンプレックスとその裏返しとしての嗜虐心、そして自分自身の行為への怯えが綯い交ぜなったような追い詰められた表情がとても良いです。竜騎士絵の中でも古戸エリカの泣き顔やベアトリーチェのベソかきのような叙情があります。

弐話 『心霊写真機』

ここからが本編でした。壱話は鞠絵が学校の七不思議に参加する経緯が書かれた序章だったんですね。 正直に言えば、序盤では壱話の鞠絵の話の続きが全面に出てきて、武のカメラと真実という物語が後退してしまい主人公側の物語は使わないのかーとちょっと落胆してしまいました。短編というより連作の形で鞠絵の物語を続けるのかなーと。 しかしそれ"校長先生"との邂逅から彼岸花と自宅に帰宅して、武が罪を思い出すまでの話でしたね。僕は「主人公が何かしらの事実や罪を忘却、あるいは隠している」というシチュエーションに燃える質なので(そういえば他作品の主人公も同様の性質を持っていますね)、序盤の冤罪事件の因縁がこのような展開を見せるのは大歓迎でした。ここで沼田陽子との和解が成立するとともに『ときには"忘却"は"真実"よりも価値のあるものである』という価値観が出現し、カメラにまつわる主人公の価値観のパラダイムシフトが行われて話の主軸が完結しました。 この和解シーンでの野々宮武と沼田陽子のある意味でクドすぎるくらいにクドく善性に留まろうとする人々というのはまさに竜騎士07の世界観が如実に反映されてますね。

なんというか、フィクション的な"気持ちよさ"を突き詰める形での方向の悪や悲劇には陥らないんですよ。フィクション的に不格好になっても人々がポジティブな善性を信じることを選択する結末に至るというのは、それが展開を妨げる形になることがままにあり、事実ひぐらしの後半なんかでは批判の的になったとは思うのですが、これがあってこその竜騎士07だというのも事実だと思います。その点で二人の掛け合いはテンポが悪いと思いつつも、これでいいのだと思うし、その二人を傍から見て苛ついている彼岸花さんのキャラ造形も活きてきて良いシーンでした。

また、この話において、だんだん妖怪バトルが押し出されてきました。校長先生に彼岸花が対抗するシーンは、『うみねこのなく頃に』においてEpisode2でカノンくんが手からビームサーベルを出現させたシーンを思い起こさせますね。初見であれば間違いなく「えっそういうファンタジーバトルなの」という戸惑いが隠せなかったでしょう。うみねこでいうところの幻想郷の住人=妖怪サイドということで今後もバトル展開がちょくちょく挟まるのでしょうか。話の展開上ではいいのですが、そればっかりになると辟易を覚えてしまうの部分もあります。

壱話と比べるとずっと物語が加速してきました。彼岸花鞠絵、校長先生などの"妖怪側の物語"を主軸にすえ、オムニバス形式で"人間側の物語"が展開されるのだろうと思います。まぁ後半になると怪しそうだけど。。

以下適当にメモ

  • バトル展開でめそめそさんが出てくるのはいわゆるハンターハンターゲーム的リアリズムっぽくて良かったです。怪談にまつわる"ルール"が戦闘中に利用されるというのは斬新に思えましたし、『めそめそさん』のルールが圧倒的な強敵である彼岸花を退けるというのも熱い展開でした。
  • 彼岸花さんがいちいち中二病セリフを一人で吐いてドヤ顔してるの渋いですね。なにかと「序列3位の〜」って言いたがるのこの年齡では仕方ないのかもしれませんが、中学生になる頃には逆に早熟しすぎるのではないかと心配になりますね。横で聞かされてる鞠絵は(また始まりましたね。。)みたいな生暖かい視線で見守ってそうです。
  • 野々宮武くん、風貌がApple信者のブロガーみたいな感じですね。あと10年もすればカメコとしてコミケで活躍しつつApple製品のレビューエントリをブログに書いてそう。
  • 彼岸花さんが「退屈だから揉め事起こしたい」という趣旨の発言を始めてからこれはベルンカステル卿的なあれなのだと思ったのですが、今後の展開次第ですね。ていうか人間を超越した存在が人間を捕食する、的な設定好きですね竜騎士07。今回の地獄云々も古戸エリカの忘却の彼方なんでしょうし。

参話『お姫様の嘘』

なんだか尻切れトンボな話でした。話の流れとしては起承転までなんですよ。いつもなら最後の彼岸花の登場以降に何かしらみどりにパラダイムシフトというか価値観を転換させるような、ネガティブに言えば説教臭いけれどやはりそれが竜騎士たる所以だよねみたいな保守的なオチがつくはずなのですが。ちょうど全話の野々村武と沼田陽子の二人の問答みたいな感じで。 同じく前の話でも言及した"主人公側に欺瞞を持っている"タイプのオチだったわけなのですが、それもすべてが完璧に覆ってしまうようなオチで、それに至るまでの伏線がどこらへんにあったかなーと色々考えてしまいました。序盤でみどりの姫設定の話をしているときに、地の文が皮肉っているくらいに演出過剰だったと思うのですが、そこら辺の文章はまぁこのオチの裏返しだったのでしょう。 あまりにオチがあっさりというか脈絡がなかったので、もしかしたら何かの伏線ということであとで登場するのでしょうか。それとも短編集ということなのでこれも一つの枯れ葉も森のなんとやらなのでしょうか。彼岸花さんもまったく出番がなく、無理やり最後にチョイだししてきたくらいなので今後に期待したいのですが。

  • 序盤の紅茶紳士ですが、語尾に『ぷっくっく』と付けないのが不思議なくらいキャラ被ってましたね。
  • 今更ですが、部活とか上下関係の感じが小学生では絶対に無いですよねこの人達。まぁこの手の学園設定は社会の箱庭のカリカチュアだと思うので特に気にしませんが。僕が小学生の頃にはもうちょっと動物や虫のような分別のつかなさがありました。
  • みどりさんの自称ワンピースなのですがどう見てもギルティギアの聖騎士団の制服。
  • みどりさんのアヘ顔は本当に最高で思わずアイコンにしたくなるくらいですね。竜騎士の立ち絵でトップ5にはいりますよこれは。ネタとしてですが。

肆話『鎮守神さまの祠』

むむむ。どちらかと言えば2話がそれなりにボリュームがあったのですね。三話、4話となかなかにショートストーリーです。いや、4話は3話の半分ほどですね。 短すぎてコメントも難しいですが。さくのしんの登場は別にしても桜田みちるが霊感云々言い出したときは右代宮真里亞と同じ『幼少期のアイデンティティとしての魔法/霊能』をテーマにするのかなと疑っていました。眼帯してるし中二病的な話になるのかと。近からず遠からずといったオチでしたが。

  • 桜田みちるちゃんですが誰かに似てるなーと思ったらあれです。うみねこのドラノールがメンチ切ってる時の顔に近いんですよ。猫っぽくてかわいい。
  • 今回も『説明しようッ!』みたいなチョイ役で出てきた彼岸花さん。まぁ立ち位置的に種明かしをする立場なので仕方ないのですが一応主役ですので。。。

伍話『ハメルンのカスタネット

3話と同じくらい絶望的な話でした。テーマ的には彼岸花がひかるくんに『覚悟』を求めるというものでしょうか。短いながらもひかる君のキャラ造形がどんどんおかしくなっていって、欺瞞系主人公の中でも中々良いキャラでした。さすがにうさぎに掘られる覚悟までは誰もできるとは思いませんが。
今回のひかる君ですが超えちゃいけないラインを安々と飛び超えて残虐ランキングをぶっちぎりにトップへと躍り出ましたね。被害者4人ということで「あ、こいつもう駄目だわ」みたいな擁護出来なさを序盤から見せつけつつ、止めの職員室でのネジの外れたエリート思考で読者を驚かせてくれました。sns時代だと確実に炎上する質の子どもだと思います。
これはもうぜひみどりちゃんとひかる君の二人でデュエットを組むのがよいのはないでしょうか。き◯がいキャラ立ちがシナジー的なあれで良い感じになると思います。

  • ひかるくんに邂逅3秒でno friends属性を見破られる鞠絵。。よっぽど幸薄い雰囲気を垂れ流してるんでしょうね。。
  • なんでしょうかこの背景絵は。。。雑というか後ろの鍵盤は一体なんなのでしょうか。。製作中の不条理系フリーゲームRPGの背景みたいな歪さを感じるのですが。
  • 職員室で説教をされるシーン。愚か主人公っぽさがよいですね。教師がいじめっこに騙されてるみたいな陳腐な展開じゃなくて致命的にキャラクタ像が変わる事実を後出しして来る感じが良いです。
  • 鞠絵、ひかるくんにdisられてそれっきりでしたね。出てきた意味すら疑いたくなるような無残な扱いでしたが、序列八位を争う話でもあったので顔出しは必要だったのかもしれません。

六話『とある少女の一日』

ここまでで唯一ボリュームがあってちゃんと展開したのが2話だと思うんですよ。他の話もそれなりに面白くはあったのですが、竜騎士らしい保守っぽさがいい感じに出ていたのが2話だったなと。だからこそこういうい後日談が救いのある形で終わるのはいわゆる因果応報の逆として、悔悟したからこそ救いがあるのだというテーゼに則ったものなのでしょうね。また最初に真相を伏せられた形で始まる構成は、連作として上手く驚きのアテンションを読者に与えてくれる中々乙な構成だと思います。

しかしこの少女の一日がいわゆる失ってから気付いたものなのだとしたら、現実の少女はきっとそうではなかったということなのでしょうか。

それと、毎度毎度他作品のテーマを持ちだして恐縮ですが"凡庸な日常の大切さ"というテーマは『ひぐらしのなく頃に罪滅し編』で竜宮レナが常に胸に秘めていたものでもありましたね。"非日常"という陰を中心に添えることで、陽のテーマを結末に持ってくることの多い竜騎士作品の保守っぽさを表す大事な概念だと思います。

弍話の野々宮武の自宅に向かう途中でもありましたが、今回もまた彼岸花さんの持つ孤独というテーマが掘り下げられたのではないでしょうか。いずれは彼岸花さんの話が本編として始まると思うので、そのときにこれらがどれだけ効果を発揮するのか楽しみです。

  • そういえば今のところまともな小学生がこの少女くらいなのですがこの学校の児童は大丈夫なのでしょうか。
  • 最初の奴隷ビジュアルと比べるとめっちゃ回復魔法とかかけてくれそうな立ち絵なのですが、奴隷ビジュアルの方が可愛かった。。

七話『ユートピア

最終話ということで2話以来のとてもボリュームのある話でした。どちらかというと一話から続いてきた鞠絵にまつわる『いじめ』の物語が完結したといえるラストだったのかもしれません。

主人公の由香里は鞠絵と同じ立ち位置にいながら、しかし鞠絵とは根本的な部分が異なっていて、だからこそ鞠絵は自分自身の悔悟を払拭するようなつもりで由香里を助けようとします。ここに鞠絵の物語としてのビルドゥングがありますね。沼田陽子のときも散々口を酸っぱくしてましたが『生きて、生きているうちに困難に立ち向かわなければならない』という強いメッセージ性があります。まぁ保守っぽいといえば確かにそうなのですが。『ひぐらしのなく頃に』において『殺人』が安易安直な解決に過ぎず、根本的には何も返ることが出来ないという部分と、今作の『逃避として自殺』が表裏一体の構造になっているとみても良いでしょう。その点で生前で鞠絵が敗北を喫する一話に始まった物語が、このような由香里が立ち向かう形で幕を閉じるというのは連作としてテーマを纏め上げた綺麗な終わり方だったのではないかと思います。

とそんな調子の良いことを言っていますが、正直に言うと展開にあまりに構造的な部分がなさすぎて、序盤の展開が辺にアッサリしすぎていたのは否めなかったのではないかなぁと思いました。彼岸花さんが横槍を入れる形で由香里に救済が訪れたというのは、2話のラストで鞠絵が仄めかしたように、素直になれないながらも由香里の奮闘を認めた彼岸花さんの由香里への救済行為ということだったのかもしれません。だとしてももうちょっとなんか彼岸花さん側の心情にせよ会話にせよ欲しかったところかなぁと。由香里がいじめられてるところから序列7位が転校してきて、それが過ぎてまたお鉢が回ってくると次は彼岸花さんが救済して。となんだか苦境に陥るたびに棚からぼた餅が転がり込んでくるような展開上の肩透かしを感じてしまいました。短編という構造上どうしても押し込めることが出来る展開や設定に限りがあるとは思うので、じゃあどうすればよかったのかというと言葉に詰まってしまいますが。またいじめの問題が40人を殺すことにより解決するというのは文字通り力こそパワーみたいな逸話になってしまった感はあります。

  • 展開がかなり唐突だな。。彼岸花が横取りして終わりーというのは急すぎた。2話のラストに鞠絵が仄めかしたように彼岸花さんも実はいい人という設定なのかもしれない。けれどクラス全員死亡と言うのは5話のひかるくんにした説教を考えるとかなりやり過ぎだよなぁ。

総括

端的に言ってしまうとテーマはチープなんですよ。いじめ問題にしたって今作が発売された2011年にはとっくにコンテンツ上の賞味期限なんか切れてましたし、多分ゼロ年代でも事情は変わらないでしょう。その題材を何か工夫を凝らして奇抜なアイデアに昇華しているというわけでもありません。テーマ的な着地点も由香里が決意したものは手垢のついたものでしょう。そしてその経過の主人公たちが抱える欺瞞や驕りといったものも既に過去の作品で幾度と無く存在した類型であることは免れ得ないと思います。 しかしそのチープなテーマの中でどれだけ作者がその作者にしか掛けない作品を書くのかというのが一読者としては読みたいんですね。今作で言えば散々言っているように竜騎士07のクドすぎるくらいに保守的なイデオロギーと、”生きること”や他者との関係性=社会から逃げ出したキャラクタ達への厳しい批判的な視点なんかはまさに竜騎士07作品でした。いじめ問題に決着を付けたいのではなくってその問題を竜騎士07がどのように書くのかというのにとても興味があったんですね。そこら辺で今作の佳境が2話の二人の問答と、由香里とスミレの問答だったのだと思います。セリフのみで小劇のような構成になるのですが、僕はあのイデオローグな感じがとても好きです。過去作品で言えば『ひぐらしのなく頃に』の前原圭一の罪の告白に対して「私達では許せない」とクラスメートが諭すシーンや、『うみねこのなく頃に』のジョージが決意を述べるシーンや、カノンくんが脱家具宣言するシーンとかですね。小劇のような構成に切り替わって話のテンポが絶対的に悪くなるのですが、それでも綺麗なバッドエンドよりも醜いハッピーエンドを目指すとでいうような方向性は、セカイ系的な”キレイさ”に食傷してしまった自分としてはこの現実社会で生きる自分自身が泥臭い未来を選択するような力強さを改めて感じることが出来ます。

しかしだからといってもやはりそのイデオローグな問答を楽しめることが出来るのもひぐらしうみねこで十二分に調教された結果であることは決して否定できません。ぶっちゃけると今作から竜騎士07作品をプレイしようという人がいたらあまりお勧めできないですね。何度も言及しているようにキャラの持つイデオロギーなんかは『ひぐらしのなく頃に』『うみねこのなく頃に』のそれの亜種としてあると思います。ガワのフィクション構造はミステリやサスペンスではなかったりするんですけど、どうしても中心にあるコアが過去作品と類似していることは否めない。かといって過去作品は総プレイ時間が100時間近くなるような大作ばかりなので、人に勧めるのはかなり難しいのですが。。。本当に特異な作家だと思います。
逆にもしも『ひぐらしのなく頃に』『うみねこのなく頃に』をプレイ済みの人がいたら是非プレイすることをおすすめします。もちろん、あれらをプレイしている人にもいろんな人がいると思うので、一概には言いかねるのですが、例えるなら『ひぐらしのなく頃に』の罪滅ぼし編の序盤の竜宮レナの独白や、『うみねこのなく頃に』の右代宮家の女性陣のエピソードなどですかね。それらの作品はマクロにはサスペンスミステリ的な構造がありましたが、個々のエピソードの部分的なものを見ると一人のキャラクタがその価値観に則って何かを独白し続けていたり、あるいは三人称でのキャラクタの心理描写などが綿密に、しかしここはクドいことなく書かれている場面が多いんですね。個人的には『ひぐらしのなく頃に:祭囃し編』や『うみねこのなく頃に』の終盤の黄金郷の大団円的なシーンも嫌いではないのですが、しかしそれらも中盤の一人のキャラクタの心理描写を綿密に重ねた結果として成立するのものだと思います。あそこら辺の心理描写が好きなら是非おすすめです。

一応『彼岸花の咲く夜に2』も購入済みなのでこれからプレイといきます。なかなか時間が取れないのでいつになるかは分かりませんが。

追記

折よく、3DS版の販促でインタビューが一昨日掲載されたようです。作者本人の経験が色濃く反映されているようですね。思えば『心霊写真機』の野々宮武の冤罪事件は作者がインタビューでよく語っていた体験そのものっぽいです。

馳星周『漂流街』感想

何ヶ月かに一度くらいの頻度で、ヤバいやつから金を借りて返済期限を破りながらその手下に追われつつ3日も寝ずに着替えもせずに新宿の雑踏をかき分けながら逃げまわりたいような衝動に駆られます。『ケツに火をつける』という言葉がありますが、まさにそれを実践したくなるんですよ。それは例えばフィリップ・マーロウ的な"孤高"の存在なんてたいそれたものではなく、より姑息で矮小な欲望に基づいたその場しのぎの行動でしかなく、しかし現実の我々の生活の中においては"孤高"よりもより生々しさを感じ続けている、感じざるを得ないものなのだと思います。

ということで馳星周の5作目の『漂流街』です。不夜城のシリーズくらいしか読んでないので、そちらのシリーズとの比較になりますが、いやー今作は疾走感がそのシリーズを遥かに凌駕してますね。たった一人でどれだけの導火線に火をつけることが出来るのか、各方面の人間を怒らせて遁走することが出来るのかという点に関しては今作の主人公のマーリオは不夜城の面々に向こうを回さないのではないでしょうか。

体言止めで可能なかぎり詳細な描写を省いたスピード感あふれる簡潔な文章の中で、過去のイメージのフラッシュバックを現在の行動に合わせて浮き上がらせるようなやり方が巧いんですよね。主人公の持つ日系ブラジル人というバックグラウンドと"太一の血"という呪いがその文体で綴られた行為を介してどんどん浮き彫りになっていって、それに苦しみ続けているマーリオが、だけれども自分自身の愚かさも止めることが出来ずにずぶずぶと深みに嵌り、取り返しの付かないことに陥っていく様子を見続けるのは、ただその行為が書かれているだけで娯楽としては最高のものだと思います。馳星周の作風は割と似たものが(今作は既に20年前の作品ですが)多いのではないかと思いますが、不夜城シリーズのみを読了済みの自分としては今作はとにかく無能ではないにも関わらず問題を抱えたマーリオと日系ブラジル人(あるいは作中の中国人やペルー人も日本人に対して同じ運命を有している)という、不夜城シリーズから連綿と続いてきた在留外国人をテーマを引き継ぎつつ、心の底に焦げ付くような憎悪と欲求が綯い交ぜになったアンビバレントな感情が次々と矛盾した行動の中で表面化していく過程が、より一層スピード感を持って書かれていたのではないかと思います。またマーリオが引き起こす問題の数は今作はぶっちぎりじゃないでしょうか。作中で何度も友人知人に”疫病神”と罵られるわけですが、本当に死神かよというくらいにあちらこちらで問題を起こしつつ人を殺しまくります。ていうか主人公補正がかかりすぎていて、終盤の大崎のビルの殴りこみらへんはもはやジェット・リーとかジャッキー・チェンとかそういうアクション俳優が演じる殺陣のような絵になってるんですよ。いきなりナイフ投げが特技とか言い出して「半径5mなら目をつぶってでもはずさない」ってお前ウッソ・エヴィンくんかよ!と思ってしまいましたね。その後の中国人コミュニティへの殴りこみといい、不夜城の主人公の面々とくらべてもバーサーカー補正による暴れっぷりはアクション小説の影が濃くなったなぁと思わないでもありませんでした。最後って相手の親玉とか残るじゃないですか。主人公はどれだけあがいても逃げまわることしか出来ずに大物の悪いやつは依然として生き残るじゃないですか。今作は全員ちゃんと殺してるんですよ。個人的にはもっと弱いほうが好きですね。

テーマとしては今作においてヒロインと呼ぶべきはカーラとケイなのですが、彼女たちが何故ヒロイン足りうるのか?何故マーリオがその二人だけに執拗に固執するのかという点がある意味でミステリ的な構造になっている気がします。ノワール的な世界観の中で唯一の聖域としてカーラが書かれていること、あるいはケイが馳作品に於ける正当なノワールとしてのヒロイン像であること、この二つのアンビバレントなキャラクタとマーリオが抱える”ブラジル”と”日本”に対する歪んだ精神構造の重なりを過程でどれだけ読み解いて行くのかということが、マーリオの行動様式とテーマ全体の理解に至る筋道なのだと思います。そしてその狂乱の先にマーリオの叙情が残るのはまさに馳星周です。

映画『ゾンビ』 感想

僕らの世代だとすべてのコンテンツがまるでパロディのパロディで、何がオリジナルなのか既に遠い彼方に忘れて去られてしまっていて、それを知っているのは一部の(多分正しい意味での知識的な)ヲタクだけだったりします。 その再生産の循環を長く繰り返しているコンテンツの一つがまさに『ゾンビもの』といわれるジャンルなのではないでしょうか。そういうわけでジョージ・A・ロメロ監督の名作『Dawn of the Dead』(邦題:ゾンビ)です。同監督の作品はなぜかPOVものを漁っていた時に『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』を視聴したくらいで(いまいちだった)、エポックメイキングとして名高い『Night of the Living Dead』も視聴していません。 現代のゾンビものだと多少は見ていて、『バイオハザード』シリーズ、ダニー・ボイル『28日後』、『28週後』、『REC』シリーズ(2が最高でした)、エドガー・ライトショーン・オブ・ザ・デッド』(これを先に見てしまったのはマズかった気がする)ジェシー・アイゼンバーグ主演『ゾンビランド』、海外ドラマ『ウォーキング・デッド』(シーズン5まで)あたりです。漫画だと『アイアムアヒーロー』『がっこうぐらし』(1巻の途中で詰んでる)、ゲームだと『デッドライジング』のプレイ動画(ニコニコのてくてくさんの字幕)を観たくらいですね。あれ?あんま消費していない気がする。なんだか王道ものって一部を観ただけで随分と消費した気分になってますね。

で、この手の一つのジャンルの再生産が連綿と続いていくような場合って「どのような変遷を経て今の形に落ち着いたのか」がとても気になるんですね。僕が勘違いしていたというのもあるのですが、例えば『28日後』(2002)で終末に日常が入り込むような描写がたくさんあるんですよ。人がいなくなったスーパーなんかでカートを転がしてみんなで競争したり、無人の公園でピクニックをするようなシーン。『ゾンビランド』(2009)でも土産物やを物色しているうちに興が乗ってしまい店内を破壊し尽くすシーンが有ります。これらのシーンって長い長い再生産を経て、構築された作品をどのようにして凌駕するのかを生産者が考えて、いわゆる脱構築みたいなことをした結果として存在したのだ、と思っていたのですがどうやら違ったようです。。

f:id:tekoire:20160828133057j:plain f:id:tekoire:20160828133102j:plain f:id:tekoire:20160828133106j:plain f:id:tekoire:20160828133112j:plain f:id:tekoire:20160828133116j:plain f:id:tekoire:20160828133122j:plain f:id:tekoire:20160828133127j:plain f:id:tekoire:20160828133133j:plain f:id:tekoire:20160828133137j:plain f:id:tekoire:20160828133141j:plain f:id:tekoire:20160828133146j:plain f:id:tekoire:20160828133153j:plain f:id:tekoire:20160828133158j:plain

この映画が作られたのが1978年なのですがこの時点で既に終末の中に閉塞した日常が入り込んでいることにとても驚きました。勝手な想像に過ぎなかったのですが、初期の作品ではゾンビそのものが脅威であり、それを映すことのみが映画の大部分を占めると思い込んでいたわけです。しかし、もうこの時点でゾンビそのものよりも、ゾンビ脅威が横溢した世界における人々の暗澹とした先行きの見えない弛緩した日常や、あるいは"元"人間としてのゾンビに対する尊厳が破壊されるような描写が大部分であるということに驚きを禁じ得ない。例えば『アイアムアヒーロー』なんかを読んだときには、狭い一軒家なんかに老若男女が共同生活をしているシーンがありますが、そういうのにとても日常描写に紙面を割いているなーと思っていたんですね。それまではゾンビそのものを脅威としていた作風だったのが、作品を重ねるごとに脱構築的に日常描写や残された人々の心理にシフトしていったと思っていたのです。なのでこれが1978年なのかと本当に驚いています。実を言うとショッピングモールとゾンビという組み合わせもこの映画を知るまでは『デッドライジング』が元ネタかと思っていました。

このタガが外れてしまった日常が悲壮に映る感じがとても良いです。通常の社会において経済的束縛を受け続けるからこそ何かを欲求し、それを建築物として体現されたのが映画におけるスーパーマーケットやショッピングモールという超高度消費のメタファなんじゃないかと思うんですね。ゾンビもので、セカイが終わってしまった後で立てこもるのがそれらの商業施設なのは、物資が豊富だとか籠城がしやすいとかそういう実際性以上に、経済機能がストップして世の中から人類が消えるその瞬間に、経済的に束縛されることなしに何かを消費することが逆説的に『日常』になり得てしまい、だからこそ誰もが滅んでしまった世界ではそれが倦怠に憂鬱に陥るしかないという狂気を映すことを目的としていて、そして観客である我々も作り手もそれを欲しているからなんじゃないかと思ったりします。社会が無いと経済は機能しないのに、社会が消えてしまった後にその経済を超越するような行為を行うことが可能になりカタルシスを感じる。しかしそれがどこまでも虚しいことでしか無いことを心の奥底で自覚しているからこんな悲しく、暗澹とした図が出来上がる。『非日常』としての『ゾンビもの』が『日常』である商業施設で展開されることに何か深い理由がありそうな気がします。

何を言いたいのか自分でもよくわからなくなってきましたが、シニカルな明るさのあるポップソングに暗い色調のゾンビの死体がよく映えて、また中盤以降の人々の弛緩した日常の暗澹さが暗い色調と音楽と相成っていまどきの現代人でしかない自分のような人間が視聴しても妙な感慨がいつまでも頭に残るような作品でした。ゾンビものでも早くに観れば他の作品もより楽しめるかもしれません。

読書記録としてブログをやる

気が向くと小説や映画なんかの感想記録を手元にテキストで書き連ねていたのですが、人の目に触れることがないとなかなか文章も構造的に書けませんし、めんどくさくなって投げ出すことが多いのが現状です。どうにかせねばなーと思い、思い立ったのがブログ。このsns全盛期に固定の目的でブログを書きだすというのも不思議な気分ですが、書籍系のsnsだと文字数制限なんかがあるんですね。飽くまで一言二言程度を読んだ記録とともに寄せるような機能らしく、少なくない長文を書くには適さないそうです。

まぁ大した知見や教養があるわけではあるわけでもなし、おまけに私生活の忙しさでなかなかフィクションの消費をする時間もとれないとは思うのですが、その貴重な時間を費やして得たものを何かしらの形にできればいいのではないかと。余談ですが2004年くらいからweb自体には入り浸っておりまして、しかしまとまったアウトプットをしたことがほとんど無く、今更感が自分の中ではとても強いのですが、まぁそれもまたwebっぽいよねということでここは一つ。せめてはてな上場前にやったら格好がついたかもしれませんが。

ということで小説やら映画やらの感想ブログということになります。アニメ漫画はあんま見ないけど見れば何かしら書こう。

土橋真二郎『女の子が完全なる恋愛にときめかない3つの理由』 感想

小説 ライトノベル

概要

土橋真二郎の最新作です。あまりライトノベル読者といえるほどに読んでいるわけではないのですが、土橋真二郎は追っかけることにしています。

テーマはいつもどおりの土橋節を恋愛に適用したもので『純愛を信じる鈴木夕凪/打算と理性で恋愛で儲けることを企む青山亜衣や生徒会のイデオロギーが衝突しつつ、その合間にて打算寄りの価値観を持つ主人公が徐々に鈴木夕凪に接近し……。』というところでした。ひとことで言うと『愛/金と打算』ですね。毎度のことながら、ともすれば手垢のついた使いふるしのテーマを如何に展開の中で料理し、かつ叙情を物語に沿えるのかという点において、土橋真二郎はサラッとやってくれます。
今作で既刊と明確に違うところがあるとすれば、短編の連作の形式を明確に採用していたところでした。OP-TICKETもそうでしたっけ。手元に無いので確認出来ませんが。普段は一作を通して一つのソリッドシチュエーションの中で展開するのですが、今作は数編に分けてそれぞれ固有の展開を持ちます。正直言って中盤以降、監獄サークルに入ってからは夕凪の持つ純愛や打算というテーマがどこまで利用されていたのかはぼんやりしてしまった感は否めませんでしたが、ちょっとしたゲーム展開モノの短編としては楽しく読むことが出来ました。

超展開

この手の作風でいちいち目くじらは立てませんが、いきなり恋愛に関する記憶を失った女子が出てきて恋人候補を当てろ、というのは完璧に超展開でしたね。作品全体を通したソリッドシチュエーションものと異なり、明確にあらすじが述べられてなかったので、どのような展開をするのか気になっていたところですが、ラストの生徒会とのゲームといい突拍子もない展開をします。そこを気にする作風ではないので些細な事ですが。

恋愛コンペティション

実を言うと最初は倒叙トリックなのかと疑っていました。米澤穂信の『愚者のエンドロール』のように、如何にして既存の事実から情報を継ぎ接ぎして事実をお膳立てるかというようなことをやるのではないかと勝手に期待しておりました。着地点として高浜の経済力がポイントになるのは良いですし、神崎が北海道にいったり、リングを買い占めたりといった行動がその伏線になっていたのは分かるのですが、それにしても読者側に「果たして何を勝利の焦点にしているか」が提示されてなくて、神崎がどうやって本物の恋人を相手にして勝利するのかがわからず後手に回る苦しい行動を見せられ続け、最後に瓢箪から駒ではどうにも。そういった不明瞭感は目立った章だった気がします。

 

女尊男卑

『楽園島からの脱出』『OP-TICKET』などはもちろん『コロシアム』において萩原が女性である月島に戦うことを強要せざるを得なかったり、『生け贄のジレンマ』でもやはり女性が中心だったりと、ライトノベルとしての文脈を除いても不思議な女性観があります。
今作の囚人の恋において


『「女は男を支配するために戦う。そうでしょ、私たち女は男女平等を訴えるけど、その内実は男に奴隷になれということ」』
『確かに女は本当の平等を求めていない。男が築き上げ独占している領域に、男女平等を掲げて踏み込んでいるだけだ。故に専業主夫などは許されない。メディアを巻き込んで一斉に批判し駆逐する。』
『社会には女が男を屈服させ支配するシステムが出来上がっている。だからこそ、中心は女性なのだ。テレビも雑誌も企業も、女性たちに尻尾をふる。』

という文章が出てきますが、ハム速と痛いニュースを読み続けた高校生みたいなこと言ってますけど大丈夫でしょうか?何か思うところがあったのか。創作内容がすなわち作者本人の主張だとは考えるほど愚かではありませんが、それにしても地の文でここまで勢いのある文章が出てくると心配してしまいます。

 

ラストの違い

生徒会との賭けに勝ったにもかかわらず、自身の利益を手放し夕凪に対して恋愛感情といっても差し支えのない感情を抱いて迎えにいって終わりましたが、他の作品と比べて主人公が純愛/博愛のイデオロギーへの立場にこれほどまでに明確に転向したことはなかった気もします。サバイバルせざるを得ない厳しさを描きつづける作品群の中では珍しいかも。
それとゲーム展開の最後にちゃんとセンチメンタル的なラストを沿える作風が多いですが、その点でも今回のラストはきちんとテーマの恋愛関係が神埼と夕凪の間で結ばれていてよかったですね。

 

その他

  • 展開の機微においてちゃんと飽きさせないような部分があって、例えば序盤の失脚のシーンで1票だけ裏切り者がいるという誤解をしていたが、実は自分の票数だったとか、こういう細かい展開をちゃんと見せてくれると飽きないで読めてポイント高い。
  • 神埼と夕凪の掛け合いは最高でしたね。土橋真二郎電撃文庫の中では堅い作風だと思いますが、あざとくなく、展開に絡ませたギャグをフェイントのように使うのはめっちゃ良い。後半は展開上フェイドアウトしましたが、アホの子の夕凪が神埼にボケまくってるのを見ていたかった気もします。
  •  依然として苦しくなると説明的な例示の羅列に逃げます。生け贄とかも『説明しようっ!』みたいなシーンがやたらと入ってた気がする。
  •  p222『自販機!』笑った。名前呼んでやれよ。

総括

ネットの感想などを見る限り社会をカリカチュアした舞台装置としての超規模の学園や極端な情報ゲームとして恋愛を扱うことなどについていけないという人が多い印象を持ちます。まぁそこら辺は「そういうもの」と納得する必要があるというか。僕はカリカチュアされた社会としての情報ゲームをどれだけジュブナイル読者の視界の限界である『教室』の中で実現出来るか、という部分にライトノベル作家としての土橋真二郎の本随があるのではないかと思っています。なのである意味で『扉の外』から訓練されてきた読者なら「いつもの土橋作品ね」と納得できるのですが、今作が初土橋作品だとそこら辺に違和感を持たれるようです。そういった方は是非『扉の外』から読まれることをおすすめしたいです。二、三作読めば(調教された結果)違和感なく入り込めること間違いありません。

なんか感想を書いてみると批判点が続いたように思いますが、決してそんなことなくとても楽しく読むことが出来ました。デスゲームとしてのソリッドシチュエーションから始まった土橋真二郎作品ですが、次はどのようなテーマを情報ゲームの盤上で展開させてくれるのか、心待ちにしたいと思います。