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tekoireフィクション行状記

小説、映画、アニメ漫画などの消費記録を投稿しています。

映画『ゾンビ』 感想

僕らの世代だとすべてのコンテンツがまるでパロディのパロディで、何がオリジナルなのか既に遠い彼方に忘れて去られてしまっていて、それを知っているのは一部の(多分正しい意味での知識的な)ヲタクだけだったりします。 その再生産の循環を長く繰り返しているコンテンツの一つがまさに『ゾンビもの』といわれるジャンルなのではないでしょうか。そういうわけでジョージ・A・ロメロ監督の名作『Dawn of the Dead』(邦題:ゾンビ)です。同監督の作品はなぜかPOVものを漁っていた時に『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』を視聴したくらいで(いまいちだった)、エポックメイキングとして名高い『Night of the Living Dead』も視聴していません。 現代のゾンビものだと多少は見ていて、『バイオハザード』シリーズ、ダニー・ボイル『28日後』、『28週後』、『REC』シリーズ(2が最高でした)、エドガー・ライトショーン・オブ・ザ・デッド』(これを先に見てしまったのはマズかった気がする)ジェシー・アイゼンバーグ主演『ゾンビランド』、海外ドラマ『ウォーキング・デッド』(シーズン5まで)あたりです。漫画だと『アイアムアヒーロー』『がっこうぐらし』(1巻の途中で詰んでる)、ゲームだと『デッドライジング』のプレイ動画(ニコニコのてくてくさんの字幕)を観たくらいですね。あれ?あんま消費していない気がする。なんだか王道ものって一部を観ただけで随分と消費した気分になってますね。

で、この手の一つのジャンルの再生産が連綿と続いていくような場合って「どのような変遷を経て今の形に落ち着いたのか」がとても気になるんですね。僕が勘違いしていたというのもあるのですが、例えば『28日後』(2002)で終末に日常が入り込むような描写がたくさんあるんですよ。人がいなくなったスーパーなんかでカートを転がしてみんなで競争したり、無人の公園でピクニックをするようなシーン。『ゾンビランド』(2009)でも土産物やを物色しているうちに興が乗ってしまい店内を破壊し尽くすシーンが有ります。これらのシーンって長い長い再生産を経て、構築された作品をどのようにして凌駕するのかを生産者が考えて、いわゆる脱構築みたいなことをした結果として存在したのだ、と思っていたのですがどうやら違ったようです。。

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この映画が作られたのが1978年なのですがこの時点で既に終末の中に閉塞した日常が入り込んでいることにとても驚きました。勝手な想像に過ぎなかったのですが、初期の作品ではゾンビそのものが脅威であり、それを映すことのみが映画の大部分を占めると思い込んでいたわけです。しかし、もうこの時点でゾンビそのものよりも、ゾンビ脅威が横溢した世界における人々の暗澹とした先行きの見えない弛緩した日常や、あるいは"元"人間としてのゾンビに対する尊厳が破壊されるような描写が大部分であるということに驚きを禁じ得ない。例えば『アイアムアヒーロー』なんかを読んだときには、狭い一軒家なんかに老若男女が共同生活をしているシーンがありますが、そういうのにとても日常描写に紙面を割いているなーと思っていたんですね。それまではゾンビそのものを脅威としていた作風だったのが、作品を重ねるごとに脱構築的に日常描写や残された人々の心理にシフトしていったと思っていたのです。なのでこれが1978年なのかと本当に驚いています。実を言うとショッピングモールとゾンビという組み合わせもこの映画を知るまでは『デッドライジング』が元ネタかと思っていました。

このタガが外れてしまった日常が悲壮に映る感じがとても良いです。通常の社会において経済的束縛を受け続けるからこそ何かを欲求し、それを建築物として体現されたのが映画におけるスーパーマーケットやショッピングモールという超高度消費のメタファなんじゃないかと思うんですね。ゾンビもので、セカイが終わってしまった後で立てこもるのがそれらの商業施設なのは、物資が豊富だとか籠城がしやすいとかそういう実際性以上に、経済機能がストップして世の中から人類が消えるその瞬間に、経済的に束縛されることなしに何かを消費することが逆説的に『日常』になり得てしまい、だからこそ誰もが滅んでしまった世界ではそれが倦怠に憂鬱に陥るしかないという狂気を映すことを目的としていて、そして観客である我々も作り手もそれを欲しているからなんじゃないかと思ったりします。社会が無いと経済は機能しないのに、社会が消えてしまった後にその経済を超越するような行為を行うことが可能になりカタルシスを感じる。しかしそれがどこまでも虚しいことでしか無いことを心の奥底で自覚しているからこんな悲しく、暗澹とした図が出来上がる。『非日常』としての『ゾンビもの』が『日常』である商業施設で展開されることに何か深い理由がありそうな気がします。

何を言いたいのか自分でもよくわからなくなってきましたが、シニカルな明るさのあるポップソングに暗い色調のゾンビの死体がよく映えて、また中盤以降の人々の弛緩した日常の暗澹さが暗い色調と音楽と相成っていまどきの現代人でしかない自分のような人間が視聴しても妙な感慨がいつまでも頭に残るような作品でした。ゾンビものでも早くに観れば他の作品もより楽しめるかもしれません。